楽園ノイズ7
1 僕たちの夏コレクション①
音響や録音についての本を読んでいると、よく『デッド』という言葉が文中に現れてぞくっとさせられることがある。
生き物の死、ではない。単に、壁や天井などの反響がない――という意味だ。
それでも僕はページに指を挟んで本を閉じ、しばらく死について考えてしまう。
僕がこれまで触れてきた死は、みんなある程度以上の過去のもの、乾燥させられて押しピンで留められてガラスケースに納められたものだった。僕にとっての死者は、記録に残っているだけで、問いかけても乞い願っても応えないものだった。
レコーディング、ことにヴォーカル録りでは、できるだけデッドな状態が求められる。反響はノイズになって歌声そのものの音を濁してしまう。広がりや温かみは後でエフェクトをかければ好きなだけ付け加えられる。加工する前の素材は余計なものがついていない方がいい。
生きたままの鳥や獣は料理しづらいから、殺して血を抜いて毛をむしって骨を外して肉だけにする。それと同じだ。デッド。
響かないだけで死に、響きを潤わせるだけで生き返る。イコライザーとコンプレッサーの間で、タイムラインに刻まれた波形の上で、ミキシングルームの埃一つない床と壁の継ぎ目で、楽音は生死の境目をうつろい、さまよい、めぐりめぐる。
はじめは『
音楽は、己が身と楽器とを持ち寄り、同じリズムを共有してそれぞれの音を溶け合わせ、いずれ空気に散って消えるものだった。そのときその場所にいる者だけが受け取ることのできる楽園の蜜と乳だったのだ。でも人の欲望は果てしない。いつでも、どこでも、何度でも。そんな願いが録音技術を進化させてきた。やがて、屍を縫い合わせた名前のない怪物みたいなものができあがる。電気と人の欲が怪物を動かす。止めようもない。トラック数は倍になり、また倍になり、ギガバイトからテラバイトへと膨れ上がる。一度死んでいるからこそ、ひとすじの光も差さない海の底にも、空気さえない月の裏側にもたどり着ける。
だから、ミキシングの最中にふと不安になる。
これはだれの声だろう。
だれの指が爪弾いたフレーズだろう。
いくつの唇と心音で紡がれたグルーヴなのだろう。
見失ったら、音源を止め、しばらく静寂に意識を浸す。ヘッドフォンをかぶって小さめの音量で再生し、低域の音をたしかめる。
そこからひとつひとつ塗り重ねるようにして、意識の中で音の像をつくる。
大丈夫。僕はよく知っている。だれの身体でもない、だれの心でも魂でもない、虚構の上につくりあげたパラダイス・ノイズ・オーケストラという愛おしい怪物なのだと。
たしかめ終えたら、再び血管に電気を流し込む。
怪物は歌い出す――僕や少女たちそっくりの声で。
*
昔から、夏が嫌いだった。
冷房の効いた室内から太陽の下に出た瞬間に肌をぼってりと覆う熱気や、身体のありとあらゆるくぼみに溜まって淀む汗や、湿って張りつくシャツといったものがとにかく嫌でしょうがなかった。
音楽を始めてからは、より実際的な意味で夏が嫌いになった。
汗ばんだ指で楽譜はでこぼこになるし、弦は変なところで滑ったり引っかかったりするし、録音のときはエアコンの音がひどいノイズになるので暑さを我慢してオフにしておかなければいけない。良いことなんてひとつもない。
六月末から、できれば暑さが和らぐ九月末まで、部屋に閉じこもって暮らしたい。
そんなことをぼやいていたら、ミーティングでバンドメンバーから袋だたきに遭った。
「海で合宿って約束したじゃん! おじいちゃんみたいなこと言わないでよ!」
朱音は頬をふくらませる。約束なんてしたっけか?
「真琴さん、冷房の効いた部屋に水着でずっといたら風邪を引いてしまいます。あっ、でも、肌を合わせていれば暖を採れるわけで……待ってください、真夏に水着で暖め合いながら冷房を浴びるというのはエネルギーの無駄ではないですか?」
詩月さんのその妄想こそ時間の無駄ではないですか?
「村瀬くんは水着になるのが怖いんでしょう? 胸がないのがばれるから」
「んなわけねーだろ!」
「胸あるの?」
「否定したのはそこじゃないんだけどッ?」
「大丈夫ですよ、真琴さんの胸がないのは日本中に知れ渡ってますから。動画で公開して何百万人も観たわけですし」
全部当たり前の真実を言われているだけなのにぞわぞわするのはなぜだろう……。
「あ、あの、胸の話はやめておいた方がいいんじゃないかと思います」
バンドの良心である伽耶がおそるおそる言う。助かった、と思いきや朱音がすぐに答えた。
「なんで? 平気だよ。今日は部外者に聞かれる心配もないし」
その日のスタジオ練習後のミーティングは、いつものマクドナルドではなかった。長机とロッカーしかない殺風景な会議室だ。
今年に入ってPNOがしょっちゅうライヴをやるようになってから、あの店が僕らのたまり場であることがファンに知られてしまったらしく、何度か声をかけられたり一緒に写真を撮ってくれと頼まれたりする事案が発生し、ついにマネージャーの黒川さんから「なにか問題に発展するかもしれないしマックは使用禁止」とのお達しが出たのである。
ちょうど、黒川さんの起ち上げた会社がスタジオ『ムーン・エコー』の隣のビルをワンフロア借りてオフィスにしていたので、ミーティングもこうしてそのオフィスの会議室を借りることにしたのだった。
当の黒川さんも同席している。さっきから発言がないのは、ノートPCで僕らのスケジュールをまとめる作業の最中だからだ。
その黒川さんを横目でちらと見ながら伽耶が言う。
「部外者はいませんけど、黒川さんに聞かれちゃうのは、その、ちょっと」
「ん? 私は全然気にしないぞ」
作業を終えたらしい黒川さんが画面から目を上げて言った。
「高校時代は私も美沙緒とかとそんな話ばっかりしてたしな。女子校なんてそんなもんだよ。男に聞かれたらちょっとあれだけど、女しかいないんだし」
「男いますけど」
「マコ、もうあきらめたら? いちいちつっこんでたらそれだけで人生終わるぞ?」
「あきらめた方が男としての人生終わりますけどっ?」
「黒川さんがいいなら、わたしが口出しすることじゃないですね……すみません」
「伽耶もあきらめないで! もう僕の味方は伽耶しかいないんだから応援してよ!」
「えっ? あ、は、はい、先輩がんばって! フレ、フレっ、先輩の胸おおきくなれ!」
「そんな話はしてないがッ?」
「あっ……ご、ごめんなさい、ええと、話の流れがわけがわからなくなっちゃって、前から国語が苦手で、期末テストも赤点ぎりぎりだったし」
完全にパニックになっている伽耶を見ているとこっちが申し訳なくなってくる。国語の成績の問題ではないのだけれど。