楽聖少女

序幕 ②

「悪魔だもんね……」僕だってまわりを本棚で囲まれてなければ逃げたいよ、と思った。しかし、押しつけた背中にあたる棚板や本の背の感触はこのうえもなくリアルで、夢だとはとても思えなかった。残念なことに。

 メフィストフェレスはしょんぼりとうなだれた。


「わたしはきやくと友好的な関係を築きたいのです。どうすればもっと親しげな印象になるでしょうか?」


 なぜ僕にく。しかし彼女のうるんだひとみに射すくめられていては、「知らねえよ」なんてとても言えなかった。


「……なんかこう、わいいポーズも考えてみるとか」


 そう言ってみると、メフィストフェレスはまゆを寄せて少し考えたあとで、おもむろに両手を肩の高さまで持ち上げ、こぶしを握ってそれぞれの手首をくたっと前に倒した。


「にゃん」

「あんた犬だったろうが」


 メフィストフェレスは口を手で押さえて涙を浮かべ、肩をふるわせ、「こんな見事なつっこみをいただけるなんて……」と感激している。いや、今のはつい! ついふんに流されて!


「さすがです。あくを前にしても一片も恐怖をいだかず、あまつさえつっこみまでなさる。それでこそわたしのあるじ様です」

「だから、つっこむ気なんてなくてっ、つい勢いで──え?」


 あるじ?

 悪魔は、今度は黒髪の先が図書室の床をなめるほど深々と礼をした。


「契約により、あなた様が、今このときよりわたしのあるじです。なんでもご用命ください」

「……契約? って」


 身を起こしたメフィストフェレスは、僕がさっき取り落とした本を手に持っていた。


「悪魔との契約といえば、きまっているではありませんか。わたしはあなた様の欲望を満たすためにぜんしんぜんれいをもってご奉仕いたします。かわりに契約期間満了のあかつきには──」


 そのしゆんかん、彼女の髪の毛がぞわりと持ち上がり、青い光を帯び、ひとみの奥で不気味な火が燃え立ち、くちびるの間に血の色と鋭いきばのきらめきが見えた。僕の全身が総毛立つ。


「──あなた様のたましいを、いただきます」


 彼女の牙の間から、真っ赤な舌がぞろりと出てきた。かまくびをもたげ、伸び、僕の胸元にまで届く。

 突き入れられる瞬間も、僕は身じろぎさえできなかった。舌先はブレザーもYシャツもも肉もろつこつも通り抜けて、僕の胸の真ん中にあるなにか致命的なものに触れ、なめ回した。かちこちのいきのどかられた。

 赤い舌が巻き取られて唇に吸い込まれ、光も火も一瞬にして消える。僕はつばを飲み下す。

 悪魔なのだ。この女、ほんとうに悪魔なのだ。おそきながら僕はそれを実感する。悪魔と、契約? 魂?

 ようやく、彼女の言葉の意味がのうみこんでくる。


「……ちょっ、ちょっと待ってください!」

「なにかご質問が?」

「ありますよ、ありまくりです!」


 彼女は、ああ、とうなずいて言った。


「やらしいご奉仕の際にはこの犬耳は有りも無しもお選びいただけます」

「ンなこといてねえよ!」「まさか犬の姿で? あるじ様にそんなごしゆがあるとは」「ひとの話を聞け!」突然のセクハラにげつこうした僕は、思わず相手が悪魔であることも忘れてメフィストフェレスに詰め寄る。


「な、なんですか契約って、なんで僕の魂なんですか、だれがいつそんな契約をしたっていうんですか!」

「ああ、詳しいご説明を後回しにしておりました。申し訳ございません」


 メフィストフェレスはせきばらいする。


「正確に申し上げれば、契約なされたのはあなた様ではありません」

「で、ですよね! 僕そんなことしたおぼえないし!」

「ですが、契約者様の望みが、『青春時代の若々しい心身に戻ってこの世のすべてをたのしみ尽くしたい』というものなのです。したがいまして、あなた様が選ばれました。これより契約者様のおられる場所においでいただき、契約者様のたましいゆうごうし、契約者様そのものになっていただきます」

「……はい?」


 僕はもうめいっぱい混乱していた。メフィストフェレスのしやべったことがばらばらに分解されて頭の中で渦を巻いていた。黒い犬の耳が羽ばたくように動いた。


「わかりやすくわいく申しますと、『さらっちゃうぞ?』ということです」

「いや可愛く言わなくていいです、なんで? なんで僕なんですかッ」

「それは契約者様のご都合です」

「知らないよそんなの! だ、だれなんですかそれッ」


 そのときメフィストフェレスは、先ほど床から拾い上げた本を胸の高さに持ち上げた。僕がおどろいて落っことした、あの一冊だ。

 彼女の指の間にのぞく著者名が、ぎらついた気がした。


「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様が、わたしの契約者様です」


 僕の目は、彼女の顔と、紅色の本の表紙とを何度もいったりきたりした。


「……え? いや、だって」


 ゲーテって、大昔の文豪だよね? 死んでるよね?

 彼女の言葉が僕の疑問の真ん中にに突き立てられる。


「これより、あなた様を西暦一八〇四年のヴァイマールにお連れします」


 僕はぜんとしていて一言も返せなかった。


「ドイツ語ができない、家族やご友人と別れなければいけない、新環境でいきなり生活できるわけがない、といったご心配はすべてご無用です。あなた様はそこで、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様ご本人になられるのですから」


 僕が──ゲーテになる?

 じゃあ僕は、この、今この二十一世紀の日本に生きている僕はどうなるの?

 そのときはじめて、メフィストフェレスが笑った。新月みたいにこくはくな笑みだった。そのしつこくの立ち姿がき消えた──と思った次のしゆんかんには僕は真後ろから抱きすくめられている。メフィストフェレスの細腕が僕の身体からだをきつくめつける。肌が裂けるかと思うくらい冷たい手だった。僕は声も出せない。耳にささやき声がきかけられる。


「あなた様のほんとうの名前は、今ここでわたしがお預かりします」


 僕の名前。

 僕のほんとうの名前。

 僕は、僕は、僕は──


 ……××××ユキ。


 思考の中でむなしいこだまがひびき合う。

 思い出せない。ノートの切れはしを水に浸すようにして、僕の名前がおくから消えようとしている。わかるのは、名前の最後の『ユキ』という音だけだ。

 メフィストフェレスの声が耳に流し込まれる。


「そう、それでは、残されたその名前の切片をとり、わたしだけはあなた様をユキ様とお呼びしましょう。たしかに契約通り、新しい肉体を引き渡したことのあかしとして」


 僕はいつの間にか自分を取り巻いているくらやみきむしった。僕の名前! 返せよ!

 闇が渦を巻き、引き伸ばされ、巨大なトンネルを形作る。僕はその中に身も心も吸い込まれていくのを感じ、声ならぬ声で叫ぶ。やめろ、いやだ、そんな二百年前のドイツなんて行きたくないよ! 僕の人生はどうなるんだよ!

 闇の中でメフィストフェレスの声がわんわんとはんきようする。


 ──それでは、ユキ様。新しいヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様……

 ──わたしのあるじ様。契約内容の確認をいたします。


 ──あなた様は、このわたしメフィストフェレスの力を、ご自分の欲望のために思うがまま用いることができます。この世のすべてをたのしみ味わい尽くすために!

 ──そして、満足されたときは。

 ──世界のすばらしさのすべてを飲み干した、そう確信なさったそのときは!


 ──高らかにうたってください、《時よ止まれフアーヴアイル・ドホ汝はいかにも美しいドウ・ビスト・ゾ・シエーン》と!


 ──その言葉をもって契約満了とし、あなた様のたましいをいただきます。

 ──あなた様はわたしのものになるのです。

 ──わたしのものに。わたしのものに。わたしのものに……



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