楽聖少女
序幕 ②
「悪魔だもんね……」僕だってまわりを本棚で囲まれてなければ逃げたいよ、と思った。しかし、押しつけた背中にあたる棚板や本の背の感触はこのうえもなくリアルで、夢だとはとても思えなかった。残念なことに。
メフィストフェレスはしょんぼりとうなだれた。
「わたしは
なぜ僕に
「……なんかこう、
そう言ってみると、メフィストフェレスは
「にゃん」
「あんた犬だったろうが」
メフィストフェレスは口を手で押さえて涙を浮かべ、肩を
「さすがです。
「だから、つっこむ気なんてなくてっ、つい勢いで──え?」
あるじ?
悪魔は、今度は黒髪の先が図書室の床をなめるほど深々と礼をした。
「契約により、あなた様が、今このときよりわたしのあるじです。なんでもご用命ください」
「……契約? って」
身を起こしたメフィストフェレスは、僕がさっき取り落とした本を手に持っていた。
「悪魔との契約といえば、きまっているではありませんか。わたしはあなた様の欲望を満たすために
その
「──あなた様の
彼女の牙の間から、真っ赤な舌がぞろりと出てきた。
突き入れられる瞬間も、僕は身じろぎさえできなかった。舌先はブレザーもYシャツも
赤い舌が巻き取られて唇に吸い込まれ、光も火も一瞬にして消える。僕は
悪魔なのだ。この女、ほんとうに悪魔なのだ。
ようやく、彼女の言葉の意味が
「……ちょっ、ちょっと待ってください!」
「なにかご質問が?」
「ありますよ、ありまくりです!」
彼女は、ああ、とうなずいて言った。
「やらしいご奉仕の際にはこの犬耳は有りも無しもお選びいただけます」
「ンなこと
「な、なんですか契約って、なんで僕の魂なんですか、だれがいつそんな契約をしたっていうんですか!」
「ああ、詳しいご説明を後回しにしておりました。申し訳ございません」
メフィストフェレスは
「正確に申し上げれば、契約なされたのはあなた様ではありません」
「で、ですよね! 僕そんなことした
「ですが、契約者様の望みが、『青春時代の若々しい心身に戻ってこの世のすべてを
「……はい?」
僕はもうめいっぱい混乱していた。メフィストフェレスの
「わかりやすく
「いや可愛く言わなくていいです、なんで? なんで僕なんですかッ」
「それは契約者様のご都合です」
「知らないよそんなの! だ、だれなんですかそれッ」
そのときメフィストフェレスは、先ほど床から拾い上げた本を胸の高さに持ち上げた。僕が
彼女の指の間にのぞく著者名が、ぎらついた気がした。
「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様が、わたしの契約者様です」
僕の目は、彼女の顔と、紅色の本の表紙とを何度もいったりきたりした。
「……え? いや、だって」
ゲーテって、大昔の文豪だよね? 死んでるよね?
彼女の言葉が僕の疑問の真ん中に
「これより、あなた様を西暦一八〇四年のヴァイマールにお連れします」
僕は
「ドイツ語ができない、家族やご友人と別れなければいけない、新環境でいきなり生活できるわけがない、といったご心配はすべてご無用です。あなた様はそこで、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様ご本人になられるのですから」
僕が──ゲーテになる?
じゃあ僕は、この、今この二十一世紀の日本に生きている僕はどうなるの?
そのときはじめて、メフィストフェレスが笑った。新月みたいに
「あなた様のほんとうの名前は、今ここでわたしがお預かりします」
僕の名前。
僕のほんとうの名前。
僕は、僕は、僕は──
……××××ユキ。
思考の中でむなしいこだまが
思い出せない。ノートの切れ
メフィストフェレスの声が耳に流し込まれる。
「そう、それでは、残されたその名前の切片をとり、わたしだけはあなた様をユキ様とお呼びしましょう。たしかに契約通り、新しい肉体を引き渡したことの
僕はいつの間にか自分を取り巻いている
闇が渦を巻き、引き伸ばされ、巨大なトンネルを形作る。僕はその中に身も心も吸い込まれていくのを感じ、声ならぬ声で叫ぶ。やめろ、いやだ、そんな二百年前のドイツなんて行きたくないよ! 僕の人生はどうなるんだよ!
闇の中でメフィストフェレスの声がわんわんと
──それでは、ユキ様。新しいヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様……
──わたしのあるじ様。契約内容の確認をいたします。
──あなた様は、このわたしメフィストフェレスの力を、ご自分の欲望のために思うがまま用いることができます。この世のすべてを
──そして、満足されたときは。
──世界のすばらしさのすべてを飲み干した、そう確信なさったそのときは!
──高らかに
──その言葉をもって契約満了とし、あなた様の
──あなた様はわたしのものになるのです。
──わたしのものに。わたしのものに。わたしのものに……